滋賀の山城を求めて~最終章~
最終章とか言っちゃってるけど、かなりがっかりなレポート。
ちゃんと行ってからレポートしろって感じだけどまぁまぁ…
桑実寺
観音寺城は某情報筋によると、9月中旬の台風で道が崩れて行けないとのことだったけど、とりあえず、観音寺城の入り口である桑実寺まで行ってみてダメだったら引き返そうと思いました。
しかし!桑実寺を甘く見てはいけない!「とりあえず」という気持ちで行ってはいけないお寺だった。なぜか!
門から本堂までの石畳の階段がすごいのだ!安土城はそんなに疲れなかったけど、ここでHPを削られる!しかも桑実寺に行く前に道を間違え、獣道を行こうとしてここでもHP削られて、もう桑実寺すらも諦めようかと思った…。
うぇぇ、まだ続くの!?
石畳の階段を登ること約20~30分で本堂に到着。手前の受付で入山料をお支払いします。本堂も拝観できます。本堂の写真を撮り忘れました。それぐらい疲れました。
桑実寺は白鳳6年(天智天皇6年ってことかしら?)に天智天皇勅願で創建。現在の建物は南北朝時代に建てられた。
住職さんに、「観音寺城って行けますか?」と尋ねたら行けるとのことだったので、ここで観音寺城の100名城スタンプをいただきました。
本堂で、無事にたどり着けるように祈願してGO!
わー!また階段かー。
登山道もアップしておこう。
水が流れてたら、自分、渡れないわ。
お?なんか見えてきたぞ!
観音寺城
本丸(城)跡!
何かしらの遺構っぽいもの。
観音正寺へ続く道にも石垣発見!
この先に観音正寺というお寺があり、道々にも遺構があるそうだが、あまりにも道が険しいのでUターンした。関ケ原を歩き回っても膝がガクガクすることなんてなかったのに、今回はかなり膝にきた。
うむ、ちゃんと(?)何かしら遺構が見れただけでも満足っす。今度、元気な時にリベンジします!
と、いうわけで、桑実寺本堂まで30分くらいかけて下山、さらに門まで20分くらいかけて降り、さらに約30分かけて安土駅へ。へとへと。よく眠れそうと思ったけど、そうでもなかった…。
観音寺城の六角氏のことよくわかってないので、勉強したほうがいいよね。
というわけで、有終の美はあまり飾れなかった旅となりました。
そのあと京都まで行き、夕食とお湯をいただいて高速バスで帰宅。
なかなか良いところが見つからなくて、京都駅から四条まで歩いた。なかなかまったりできそうなカフェ発見! #和歌山滋賀の旅2015
最後は京都タワー地下の♨に。夜行バスに乗りました。さよなら近畿地方。 #和歌山滋賀の旅2015
京都タワーに銭湯があるのは夜行バス利用者にはありがたい!朝も7:00くらいからやってるみたいなので、夜行バスで朝到着してひとっ風呂浴びてから観光もできますね!
今回の旅で100名城は38か所目、お城は60か所目でした!そんなに行ったのか。行った城を全部言える気がしない。
滋賀の山城を求めて~安土城編~
お次の目的地は安土城!ここはスルーできないね!というか、行きたかったお城!
大手道
もうこれを見ただけでも感動と興奮ものだよね!ちなみに左にある蛍光グリーンの箱はお賽銭箱。
石畳のこの大手道には仏像の石造が使われている(踏まれてだいぶお姿がわからなくなってるけど)。
伝前田利家邸跡
大手道の右手にある。羽柴秀吉邸跡から見た。
伝羽柴秀吉邸跡
大手道の左手にある。前田利家屋敷跡から見た。と、いうことはこの二人はお宅がお向かいどうし!?説。
摠見寺仮本堂
「仮本堂」と言うからには本当の本堂もある(あった)。ここは伝徳川家康邸跡。シルバーウィークだったからか、特別公開しているうえ、拝観券だけでお茶菓子がいただける。
お庭を見ながらまったりと♪うーん、まだスタートしたばっかだよ?
えぇなぁ、自分もこんな部屋に住みたい。
発掘された安土城の痕跡が展示してある。金箔瓦!安土城って築城してからわずか3年で焼失したけど、もし、長く残っていたらメンテナンスが大変なんだろうなーと思いつつ…。
黒金門跡
この辺りの石垣は400年間崩れることなく、この形を保ってきたんだとか。
石垣が立派。で、いつものごとく例のものを探したけど…
あったあった!石を切り出した跡!安土城の石垣で見つけたのこれだけだった。そりゃそうだよね、ほとんど加工をしてない石使ってるもんね、ここは。この石すらも別の建物で使われてたものかもね。
天主台跡
どんなものが建っていたのかは「信長の館」でわかる。誰が燃やしたかわかっていないのがまたミステリーよね。明智軍が燃やしたとも、織田信雄が動揺して燃やしたとも言われている。信雄が継がなくてよかったと思った瞬間だった。(ゴメンネ)
摠見寺本堂跡
天主とその付近が燃えても摠見寺は燃えなかったが、嘉永7年(1854)に焼失。…なんかよくあるよね、こういうこと。燃えなかったのになんでもないときに燃えちゃったっていうの。そういう例もう1個知ってるわ。
本堂は焼失したけど、三重塔と門は残っている。
このあたりでやっと気づいた!カメラのレンズが汚れていることに!なんで撮影すると光がもや~ってなるんだろうと思ったら!もう旅も終盤だよ!早く気づけよもう!って感じでした。
あとは下るだけ。安土城考古博物館と信長の館へGO!
安土城考古博物館
田畑が広がる地帯にぽこっと洋風の建物があって、ちょっと面白い。
滋賀県で、日本で一番大きい銅鐸と日本で一番小さい銅鐸が発掘され、ここに保存されている。こんな小さい銅鐸初めて見た。
もちろん、滋賀のお城のことも学べるよ!
安土城天主 信長の館
写真撮影はOKだけど、公開はNGなので写真なし。天主の5階と6階を再現したやつが本当にすごかった!すごかったから、デスクトップの壁紙にしたらリッチな気分になった。
VR安土城シアターは見るとどんな様子だったかが良くわかる。
安土城に行って、自分の中の好きな城ランキングが大荒れしそうな勢いだった。
さてさて、ランチにするかー。
夜行バス出発時間まで時間が余りまくってこれからどうしようかなと思った矢先に思いついた行先は…?
次回に続く!(まだ続くのかよ!)
小谷城編↓
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佐和山城編↓
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滋賀の山城を求めて~佐和山城編~
正解は佐和山城でした!
石田三成屋敷跡
彦根駅から龍潭寺を目指して歩く途中で見つけた。今ではすっかり竹藪である。
佐和山城のへの登山口の前にガイドさんがいらっしゃいました。
「石田三成が好きで来たんですか?」
って尋ねられたけど、「いやー…」って感じで可愛くない回答をしてしまいました。嫌いではないよ、嫌いでは。ここで、資料をいただいていざ山登りへ!
入口は龍潭寺の入り口でもある。
石田三成像
入ってすぐ左手を向くと会える。
龍潭寺の門をくぐり、墓地を通り抜けて…
道はこんな感じ。
塩硝櫓跡
20分ぐらい歩くと遺構がちらほら。ここは塩硝蔵跡。塩櫓とか名前がいろいろあって混乱してるらしい。
このビニールシートをかぶせてあるあたりが何か発掘調査をしてそうですね、と思ったら…
地下室が発見されたそうですね!行った数日後(垂井に行った日)に知った。
西の丸跡
塩硝櫓のあるあたりも西の丸とも言われているけれど…
本丸跡
頂上に着いたー!!
ここにもガイドさんがいらっしゃって、
「佐和山に登ってくる人は石田三成が好きな人と、単に山城が好きな人と2つパターンがあるんだけど、あなたはどっち?」
って質問され、後者だって答えたら、山城好きにはぜひ見てもらいたいものがあるということで、あちこちご案内していただきました。
隅石垣
佐和山にわずかに残る石垣。石垣の隅の部分。
そういえば、こんなニュースもあったよね。
佐和山城にほとんど残ってないから、使い尽くしちゃったのかしらね?
千貫井
おおおお!!井戸じゃ井戸じゃ!
佐和山城にとって、この井戸は千貫にも値する貴重な水源だったことからこの名前がついた。
佐和山城は関ケ原の戦いで西軍から裏切った小早川秀秋らに攻めさせた。千貫井から彦根市街地が望めるが、市街地にポコッとある山に家康が陣を布き、その様子を見ていたとか。
散策しているとところどころに平坦な地があり、曲輪があったんじゃないかと。
この写真の真ん中より少し上に道のようになっているところがあるが、佐和山城は、龍潭寺から入っていくのではなく、逆方面から入っていくのが正式な登城ルートで、それがこの道だったのではないかとされている。ガイドさんでも、このルートで山頂に行ったことが無いそうです。崩れたりして、行けないんだろうな。
ちなみに山頂からばっちり彦根城が見える。佐和山城の石垣がほとんどあっちに行っちゃったんだろうな。
彦根城も行きたかったけど、連休中であることを考えると人がわっさわさしてそうだったので諦めました。一度行ったことあるから井伊や良いや。
龍潭寺
天平5年(734)に遠江国浜名湖北井伊谷郷で行基が開基。”井伊谷”でわかっちゃうよね、井伊家とゆかりのあるお寺。慶長5年(1600)に関ケ原の戦いでの功により、井伊直政が箕輪城主(高崎城なんじゃないかな)から佐和山城主となったのをきっかけにこの地に移した。
お庭が綺麗。「ふだらくの庭」。
襖絵も見事。一部を除き、写真撮影が可能。
滋賀の山城巡りはまだまだ続くよ!
小谷城編↓
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滋賀の山城を求めて~小谷城編~
山城を求めて小谷城に行ってきました。
小谷城は連休だとガイドツアーをやってくれているので、それに参加してみた。
ガイドさんの話がとてもためになる。ちゃんとメモしながら聞いていればよかったなー。
戦国ガイドステーションでガイドツアーを申し込み。
杖を持って行ってくださいって言われて拝借。初めて杖使う!すごく楽だった。
「かえしておねがい♡」
ガイドを申し込むとさらに番所跡のあたりまでバスで連れて行ってくれる。(歩くと40分くらいの登山らしい)
通った道の先が見えないくらいくねった曲がり道。これも策の一つで、敵がこの道を進むとき、まっすぐだと2方向からしか攻撃ができないが、曲がり道にすると3方向から攻撃ができるという仕組み。なるほど!
虎御前山展望所
目の前の山が虎御前山。さらに向こう側に琵琶湖。小谷城攻めのときに織田方がこの山に陣を布いている。
御馬屋跡と馬洗池
杖をついた人が立っているあたりが土塁。
池の奥にある石垣は当時のもの。この池の上にももう一つ池がある。草が繁茂していて池とわかりにくくなっていたけれど。
桜馬場展望所の眺め
ここで大河ドラマ『江』の撮影をしたそうです。観てたけど記憶にない…。お市の方が嫁いできたときに、長政がここに連れてきて会話したシーンが…あれ?全部見てたのに何で記憶がないんだろ…。小谷城の下には福井に通じる道があり、お市の方が柴田勝家のもとに再婚するときに通ったんだとか。どんな思いでこのあたりを通ったんでしょうか。
海は無いが、この道のおかげで若狭からの海の幸が届き、経済的にも豊かだったんだとか。浅井長政像もぽっちゃりしてますよねって言われた時は「あぁ確かに」と思った。
首据石
初代亮政のときの六角氏との戦いで内通した今井秀信の首をさらしたとされる石。
浅井氏家臣供養碑
供養碑の後ろで石がごろごろしているのは、羽柴秀吉が小谷城を壊した跡なんだそう。浅井氏を滅ぼした後、小谷城に秀吉が入ったが、往来が不便ということで長浜城を築城して移動。その後、別の武将がこの城を使って悪企みしないようにと壊した。
浅井氏の最期に、城に火にかけたというシーンというかイメージがあるけど、燃えた痕跡が発掘されていないし、燃えたら秀吉が入れないってことで、燃えてない。
黒金御門跡
秀吉による破壊の痕跡が見られる。
井戸跡
井戸跡から化粧道具が発掘されたんだとか。持ち主はお市の方?井戸って面白いよね、ホント好き。
本丸跡
本丸跡から見える堀切
残念ながら堀切のV字具合が確認できませんでした。ツアーに含まれていなかった。
本丸跡から見える赤尾屋敷跡
真ん中よりちょっと上に移っている茶色いスペースが赤尾屋敷跡。天正元年(1573)に浅井長政が29歳の若さで自刃した。29歳…若い!
ここでUターン!小谷城にはまだまだ遺構があり、回ると一日がかりになるんだとか。なんかそんな気がする。
小谷城戦国歴史資料館を周る予定だったのだが、なにをトチ狂ったのか、下山してすぐ出発のバスを予約してしまい…。またこの地に戻ってこようと思いました。
近くに姉川の合戦跡もあるから行きたいし。
時間が余ってしまったので予定外の城に行きました。
それはどこか?
次回に続く!
後北条氏の足跡を辿って…~高野山編~
高野山まで行ってきました。シルバーウィークだったからか、めっちゃくちゃ人がいた!びっくりした。高野山ってこんなところだっけ!?って思った。
それはさておき…
金剛峰寺の説明は良いよね。みんな知ってるし。
高野山霊宝館
特別展をやっていて、武田信玄像、武田勝頼妻子像、長尾景虎像が印象的でした。
前期は浅井久政像、長政像、長政夫人像が展示してあったそうで。こっちも見たかったなー。でもタイトルのテーマで行ったんだったら信玄像・謙信像が見られたのはぴったりだったよね。快慶作の仏像も見られて良かったです。
ちょうどこの時期
ぶっしのぶっしん 鎌倉半分仏師録 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスONLINE)
- 作者: 鎌谷悠希
- 出版社/メーカー: スクウェア・エニックス
- 発売日: 2014/07/23
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この漫画はまりました。快慶さんはまだ登場してないけど(してるのかもしれないけど)。
高野山で見つけた「小田原」
由来はもちろんわが故郷・神奈川県にある小田原市。この通り沿いにある高室院に小田原征伐の後、徳川家康の次女が妻だったので生かされたという北条氏直・氏盛父子が静かに暮らしていたところだそうです。残念ながらここに宿泊しないと中は見れなさそうでした。
いつかこの宿坊に泊まってみよう…。
いよいよ奥之院へ!!
奥之院でいろいろな家の墓所を見つけました!
他の墓所に隠れてスルーされがち!もったいない!
加賀前田家
小田原北條家墓所
みっけたー!!奥之院の通りからすこし外れたところに!五代北条氏の墓所!五代以上ありそうなのは奥さんとか家臣とかの分があるのかもね。すごいのはこの碑!
この墓所にしかないよ、こんな立派なの!さすがです!
いやーこれで任務完了!って思うじゃろ?違うんじゃ。前日にTwitterのフォロワーさんから素晴らしい情報を得ましてね!こいつは見つけるまで帰れんと思いました。
ここですよ!「うちは全然高野山と関係ありません」みたいな雰囲気(?)醸しながらちゃっかりあるんですよ!ここも通りから外れたところにあるけど、案内があるからばっちり見逃しませんでした。やっぱり通りから外れるからか、「へー鍋島家」で、通過していく人が多かったです。
墓石に何が書いてあるんだろう?気になりました。ズームアップ!!
!?
あれ??「勝茂」「寛永六年」「陽泰院」って書いてありますね??勝茂がお母様の陽泰院こと彦鶴さん(寛永6年死去)を供養するために建てたってこと!?って勝手に推理しました!うわぁ!彦鶴さんのかー!すばらしい!この墓石の右側にも墓石があったんだけど、残念ながら「勝茂」しか読めませんでした。もしかしたら直茂さまのものかもしれないけど、勝茂本人のものかもしれないね。
素晴らしすぎて行きも帰りもお参りしました。そしたら鍋島家墓所をお参りしようとするおなご三人衆とすれ違いました。思わず「鍋島家お好きなんですか!?」って声をかけたくなりました。
実はこの墓所に裏には
馬場信房・信春ともいう。ここもスルーされがち。(違う墓所撮ってるかも)
相模小田原大久保家墓所
まぁ、こっちもあるわけですよ。
すごい人気。みんな立ち止まる。
ここも人気。
この間、高崎城行きましたからね。安藤家の墓所があるとは思いませんでした。
本多忠勝って、大多喜城(千葉県)のイメージがあるけど、最後は伊勢に行ったんだね。
もうひとつあった気がするけど、何が違うんだ?
上杉謙信廟
他とはちがうぜ!
宿泊は宿坊に泊まりました。精進料理が凄くおいしかった!ちょっと贅沢目にしたら食べきれないくらい料理が出たけど、完食しました。
ちょっとぜいたくなコースを選んだらたくさん出てきてお腹いっぱいになった。残さず戴きました。こんなにたくさんの料理があるのに一切肉魚がない!豆腐がすごくおいしかった。 #和歌山滋賀の旅2015 pic.twitter.com/ZnNamcbxOd
— 青衣 (@99AB4E_5317178) September 20, 2015
ランチのデザートには「あんぶ」をいただきました。
不思議な食感だった気がする。
タイトルと違って鍋島家に熱が入っちゃった。どっちも同じくらい好きさ!
まだまだ続くよ!
竹中半兵衛の故郷へ
垂井町に行ってきました。
松寿丸(黒田長政)が植えたとされる松
竹中氏陣屋
禅幢寺
菩提山城
白山神社から登山することだいたい30~40分。やっと遺構が見えてくる。
さらに登ると…わー!!大好きな堀切さん!!下りてV字具合を確認したかったけど、断念。奥にも遺構あるね。
空濠。
本曲輪。
からの眺め。こう見ると、結構高い山だなー。
関ケ原駅にあるこの看板の「岩手城」って菩提山城じゃなくて、陣屋の方なのかな?あと、平塚為広も垂井にお城を持ってたことに気づき、行けばよかったと後悔。
福島正則ってこのとき清須城主だったんだね。井伊直政はご存じのとおり箕輪城主!
小早川秀秋は名島城主だったのか。うーん、やっぱり名島城行きたかったなー。
自然いっぱいの垂井町、ぜひ!
夜は電気つけっぱで寝落ちて朝の4:00くらいに目が覚めるという奇跡。関ケ原ウォーキングに遅刻するかと思った!!
ちょっと遅いランチに…
遅めのランチ!去年も行って、雰囲気良かったんだよなぁ。 #岐阜の旅2015
去年もここのカフェでご飯したけどホント好き!
Return to 小田原
行くとだいたい後北条にぶつかる関東各地のお城をめぐりめぐって小田原に戻ってきました。
駅には…
ホント、いつか実現してほしいっす!大河ドラマに!!
現在、小田原城は耐震工事中。来年の春くらいにリニューアルオープンするそうです。楽しみ♪
天守の代わりに二つの門が一般公開しているというので行かねばと!
銅門(あかがねもん)
1632年に稲葉正勝が城主となったときに大幅な改造が加えられ、その時に建てられたとされている。明治に解体され、平成6年から3年の歳月をかけて復元された。
誰もいない銅門の撮影に成功!
銅門を出ると…ここって、北條五代まつりの出陣式の舞台になってた…!
北條五代祭りについてはこっちへ↓
blue-ghost-girl.hatenablog.com
常盤木門
ここも一般公開していました。
名胡桃城事件に関わった真田兄弟。
ちょくちょく小田原城にちょっかい出してくる方々
小田原征伐に加わった方々
小田原征伐首謀者と北方から攻めてきた方々
小田原勢
遅参の段。
無双無双無双だらけ…!!8月31日まで!
後北条にキャラもいました。みんなかっこいいなー!!
下左から反時計回りに氏政、氏康、早雲、氏綱、氏直、風魔小太郎、氏邦、氏照、綱成。
小田原城歴史見聞館
写真撮るの忘れちゃった。小田原城の歴史が良くわかる施設。
銅門にいらっしゃったガイドさんの話によるこの建物はもともとここにあった小学校の施設(講堂)だったそうで。
三味線堀
小田原高校の周辺一帯は後北条時代の山の手側の中心地だったようで、遺構が残る。校舎の建て替え工事にあたり、発掘調査を行ったところ、堀や井戸などが残っていた。遺構を壊さないように埋戻し、今の小田原高校が建っているんだそう。うーん、小田原城の遺構の上に立つ学校…うらやましいなぁ。
小峰の大堀切
後北条時代の遺構。三代目氏康のころから造られ、武田信玄や上杉謙信に攻められるたびにその経験をもとに拡大していき、五代目氏直のときに小田原征伐の直前に完成したとされている。
全国的に見ても最大規模の堀切らしい!堀切好きには堪らんスポット。
見事なV字ですな。東堀と西堀があり、西堀を見るのを忘れました。涼しくなって虫がいなくなったら行きたい。
氏政・氏照の墓
やっと見つけたー!
四代目氏政と八王子城主氏照の墓。二人は自刃し、かつてこの地にあった北条氏の寺、伝心庵に埋葬された。一番大きいお墓が氏政の奥さん(右)、中くらいが氏政(真ん中)、小さいのが氏照(左)。当主だった氏直(氏政の子)は徳川家康の次女をお嫁さんにもらっているということで、養子の氏盛(氏政の弟・氏規の子)とともに高野山に追放された。氏盛はのちに許され、文禄・慶長の役に出陣している。肥前名護屋に陣跡があるらしいので行ってみたい!氏盛は狭山藩主(大阪)になり、狭山藩は北条で明治維新を迎えている。小田原藩は藩主の家が転々としているのにね。
ほら、小田原に行きたくな~る行きたくな~る♪