一紙半銭
いっしはんせん【一紙半銭】
ごくわずかなこと。仏教用語では僅かな寄進のこと。
4月12日にあるお方に会いに奈良まで。
その前に…
腹ごしらえして…
1567年 東大寺大仏殿の戦い
多聞山城跡
多聞(山)城跡 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
今は奈良市立若草中学校になっている。多聞山城があったからか、校門も城門みたい。
かつて、ここには松永久秀の城、多聞山城があった。日本に来た宣教師の史料からもかなり豪華な造りだったそうだが、その面影はない。
多聞山城跡から東大寺方面 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
辛うじて、多聞山城の案内から東大寺が見えた。左側の建物はお水取りの舞台、二月堂。
で、「東大寺大仏殿の戦い」というくらいだから、大仏殿の辺りで戦い、その結果、大仏殿は焼失、大仏は頭が落下するという、被害が出た。
つぎはぎの大仏 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
じゃあこの大仏と大仏殿はなに?
戦国期の修理
しかし、1610年の強風で仮堂は崩壊、その後約100年近く、大仏は野晒し状態にあった。
会いたい人
今ある東大寺の大仏と大仏殿は? #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
今の大仏と大仏殿は誰によるものか?それを知るには4月12日または10月5日に東大寺に行くと答えがわかる。大仏殿と向かい合ったときに左側に行くと、普段門を閉ざし、入ることができない勧進所に入ることができる。
37歳の時に幕府から勧進の許可が下りたが「勧進はご勝手に。幕府はお金は出しません」という姿勢だったため、「一紙半銭」を掲げ、全国を駆け回る。鎌倉期の復興に尽力した重源が勧進活動で使っていたものを開帳したり、色んな工夫をして資金を集めたそう。集めたお金は今に置き換えると10億円くらいになったそう。
1692年に大仏の修理が完成し、開眼供養を行った。
1705年、江戸滞在中に死去。
↑江戸城平川門。
勧進活動で苦労した公慶上人、像もその様子をよく表しており、左目が充血、体は痩せ細っている。
ちなみに大仏殿はその4年後の1709年に完成。
公慶上人像は大仏殿の方角を向くように安置されている。
↓公慶上人ビュー
※公慶上人の苦労っぷりがうまく伝えられん…
二月堂から多聞山城方面 #奈良散歩2016 posted by (C)青衣
東大寺からも多聞山城は見えたはず。右側の島っぽいところが多聞山城跡。
ここから見えたものは豪華なものだったのか。
松永久秀が火を付けたのではない説もあるみたいだけど、これだけは言いたい。こんなところで戦わなければ損壊・焼失することはなかったんじゃないかと。
思えば東大寺創建も大仏建立の詔で
"一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情(こころ)に願う者有らば…"
って言ってるから、昔からみんなで協力して建てられ、復興されたお寺なんだよね。
次は10月5日に会えますよ。