後北条氏の足跡を辿って… ~伊豆編~
後北条氏関連史跡、たくさん回ってきたような気がするけど、まだまだあるのでお散歩してきました\(^o^)/
後北条氏始まりの地、静岡の東側へ
レッツゴー☆⌒(*^∇゜)v
ちなみに、「北条早雲」って言ってるけど、北条姓を名乗るのは子の氏綱からなのであんまり正しくないことは有名。もとは伊勢氏でした。
修禅寺
早雲が韮山城で死去し、荼毘に付されたとされるお寺。早雲が奉納したとされる、血書阿弥陀経が見られる。もし、本当に早雲の血で書かれたものだったら、わかるかもしれないね、血液型が…?
ちなみに、源頼家の血書阿弥陀経もある。
韮山城跡
1441年に早雲が堀越公方・足利政知とその子茶々丸を滅ぼした後、ここを拠点として関東に進出。小田原を攻めた後も、小田原に移ることなく死去するまでいた。
なんとなく、お城の遺構っぽい。写真上の建物は熊野神社。早雲が和歌山の熊野神社を勧請して建てた。
↑本丸跡。
韮山城跡障子堀っぽい遺構 posted by (C)青衣
障子堀っぽい。
後に氏康の子で、氏政・氏照・氏邦の弟にあたり、河内狭山藩祖となる氏規が城主となり、小田原征伐時に数ヶ月持ちこたえたというお城。
伝 堀越御所
伝・堀越御所跡 posted by (C)青衣 ]
このあたりに堀越御所があったとされる。自分が苦手なヤツきた!!
足利義政の弟・政知が、当時、幕府の言うことを聞かず、やりたい放題(だったかは分からない)だった鎌倉公方(尊氏の子の代から続く)・足利成氏に代わり、鎌倉公方になるべく息子茶々丸を連れてやってきたが、足止めをくらい、このあたりに御所を置いたのが始まり。色んな混乱があって最終的に早雲に攻められて滅ぼされた。
だだっ広くて特に遺構とかはない。
願成就院
1189年頃に北条時政が娘婿の頼朝の必勝祈願のために建立。
1491年に早雲が堀越公方を攻めたさいに焼失した。その後再建されたが、1590年の小田原征伐で豊臣方によって再度焼失。江戸時代に河内狭山藩主の北条氏貞が再建している。ふむ、北条氏が建立したお寺を早雲が…ふむふむ…。面白いお寺。
運慶作の国宝仏像が5体残る。仏像の体内から、北条時政が運慶に発注したことがわかる木札が発見されている。
どちらの焼失時か不明だが、仏像2体焼失、本尊の阿弥陀如来座像の台座と手の一部が焼損している。
また、有名な北条時政像も見られる。
興国寺城跡
早雲が今川氏に仕えていたときに、初めて城持ちになった城。
興国寺城跡 posted by (C)青衣
↑早雲が興国寺城の初代城主ということだろうか?
興国寺城天守石垣跡 posted by (C)青衣
↑天守台石垣跡。おお!石垣があるの!?ってぬか喜びするじゃろ…?
↑立派な土塁跡!!ってぬか喜びするじゃろ…?
↑天守跡。礎石も残っている。
↑櫓跡。
櫓跡から見た天守跡。
↑堀切ではなく、空跡。この写真の左側ではすぐ下を東海道新幹線が走っている。と、いうことは、三島~静岡は興国寺城跡の下を通っているということだな!
さっきか「ぬか喜び」って言ってるのは、この城が武田や豊臣、徳川が治めていたから、早雲以降、いろんな人によって手が加わっており、早雲がいたころとだいぶ変わっているとされている。早雲が「そこにいた」ということしかわからない。
ちなみに、1604年くらいまで使われていたお城。
三島大社
三島大社の宝物館はぜひ行ってほしい!!
自分のBest of letterは「北条氏政願書₍天正10年3月24日₎」かな!!
書状の内容は「信長公と仲良くなれますように!叶ったら社殿の建て直しするからね!氏直が」というもの。可愛い!信長と仲良くなれるように祈願するとか必死だったんだろうね、「信長公」って書いてあるのもポイント高いよね。叶ったんでしょうか。
三島大社のそばにおしゃれなお店がいっぱいあるよ。
三島市立郷土資料館
三島市郷土資料館。山中城跡から発掘された資料も展示してある。 #静岡の旅2016
ここでは山中城跡から発掘された資料が見られる!
3種類の鉄砲玉が見つかっている。
青色₍鉛青銅₎=後北条方
白色₍鉛玉₎=豊臣方
赤色₍鉄玉₎=?
鉄砲玉、既に何種類もあったんだなぁと興味深いとともに?の勢力が非常に気になる。どっちかが2種類の玉を使っていたのか、他にいたのか…。